経済、市場、金融、政治、芸能、旅行、外食、映画、商品に至るまで、言いたいことを書きまくる。連日更新。古いのも時おり更新、チェックら!but 激しさを増す演劇活動はリンクから「経済とH」へGO。

立花隆さんと出会ったこと。立花隆さんの憲法論。

9/14

 いま11月の大森ヒロシさんプロデュースの台本を書いています。いまの僕の目標はひとつです。演劇で毎年コンスタントにメシが食えるようなプロになることです。いろいろと壁にもぶつかっていますが、僕がこの数年でやったことはすごいと思ってます。
 しかし、僕はいろいろのことを経験してきました。20代は主に金融の世界で世界の経済とマーケットのことをしり、30代には個別企業にコンサルタントに入るとともにメディアへの進出を果たしました。よくどうやってメディアに進出したのですか?と聞かれるのですが、昔、熊×信也というTBSの名物プロデューサーが匿名で「投稿写真」という雑誌に連載でメディアに関わる人を取材していた。その連載にインタビューを受けて答えた。というのも、僕はその時に熊×さんのやっていたバラエティ番組の放送作家をやっていたからです。
 僕は子どもの頃から演劇やテレビに興味がありました。小学校4年の時、同級生にTBSアナの山本文郎さんの息子がいて、そのころから年に2回はTBSの山本さん関係の番組を間近で見せてもらってました。そのころには強くテレビの仕事をしたいと思っていたのです。報道にも興味はありましたが、どちらかというとテレビドラマのディレクターになりたいなと、漠然と、漠然と考えていました。大学を卒業するときも、何となくそんな気持です。自分で何となく自分は才能があって、何となくそうなっていくもんだと勝手に思い込んでいた。でも、ライバルの人はメディアの勉強をして望んでいた。テレビに出たいと思う連中はそのための努力もしていた。僕はなにもしていない。学生時代に何か人に誇れることをやったのかというとそうでもない。漠然と、ただ漠然と過ごしていた。まあ、そんなんじゃ厳しい在京のテレビ局に入ることなんてできなくて、大学を出る時には全く歯が立たなかった。
 卒業時に内定や内々定をもらったのは、日本の都市銀行とメーカー、そして、外資系の金融機関でした。
 で、僕は金融機関に行くのです。
 20代の終わりには金融機関からメディアへの進出を切望して、外資系の金融誌の記者になるのですが、こりゃ違うと数ヶ月で退職した。そのころたまたま募集していた国連での湾岸戦争後のボランティアに合格したこともあるでしょう。それを数ヶ月やりました。それも終わって仕事もなくなってしまった。それなので、半年くらいプラプラします。その時に人に頼まれ初めての口立てで芝居の台本を書いた。演劇をやりたいという思いはもうあったんです。同時にメディアへの進出も始めた。ちょうど30才くらいのころです。その芝居は駅前劇場で上演されて、役者がうまかったこともあって笑いも取れて、ますます芝居をやりたいなあと思ったものです。
 「投稿写真」のインタビューで答えたのは、銀行員でいるときも50回くらいテレビ局や制作会社の中途採用の就職試験を受けたこと。それが全てダメだったこと。それできちんと就職するのは難しいと諦めて、どうやってテレビに関わるかと考えた時に、TV番組の素人参加番組に出ることにした。というか、それしか方法がなかったんです。テレビに何回か出ていて、僕が何かで使えそうだと思えば誰かが見つけてくれるとおもったんです。
 
 僕が出た番組はふたつです。ひとつは、テレビ朝日の「東京ソフトウォーズ」というプレゼン番組です。そこに毎月1回出た。そこで、見出してもらって放送作家、ひいては出演者になっていくのです。もうひとつは「朝まで生テレビ」です。といっても、後ろに座っている一般の人たちっていますよね?あれです。2回見学にいって、そこに座って発言したんです。そしたら、見出してくれた。「朝まで生テレビ」の構成をやっている久利一さんです。久利さんは、「東京ソフトウォーズ」の構成もやってました。翌週にはラジオの1時間の討論番組に出してくれました。Fという今も結構売れているバリバリ右の政治評論家とアメリカ論なんかを討論しました。
 すぐに浅草キッドと別所哲也さんがやってる日本テレビの番組にも出してもらった。「トゥナイト」に出る前で、僕がプロとしてギャラをもらった初めてのTV番組の相手は浅草キッドさんです。
 メディアに関わるようになったけれども、まだまだ時間もあって、「東京ソフトウォーズ」に審査員出ていた経営コンサルタントのHさんから声がかかって、経営コンサルタント会社にも行くようになった。こうして二足のわらじで仕事をしたのです。こうして僕のプータロー生活は半年ほどで終わりました。31才の頃には食えるようになっていて、同じ年齢のサラリーマンよりは年収もあったでしょう。それから脇目もふらずにメディアでの仕事をしました。すぐに忙しくなって、演劇は見るだけになっていくのです。
 僕はテレビやラジオという電波のメディアの仕事が多く、それはどんどん外に出すメディアなんですね。自分の中になかなか蓄積されていかない。だから、メディアで食えるようになってからは、書くということにスゴくこだわりました。書くと自分に蓄積される。なぜなら、山ほど調べる、取材するからです。書くならちゃんとしたものを書きたいと思っていた時に、山ほど仕事をくれたのが講談社でした。松沢さんという文芸担当の人が、いまはなくなった月刊現代という総合雑誌に移って、そこで原稿用紙20枚から25枚のルポルタージュを書かせてもらうようになったのです。それは山ほど書いた。
 プレジデント社や文芸春秋社もたまーに仕事をくれました。単行本も書いたり、雑誌の連載もはじまった。書く技術は松沢さんが徹底的に鍛えてくれました。原稿用紙20枚のルポを書くのに、60枚とか80枚書いたのはざらにあります。本当に辛かったけれども力になった。原稿料も悪くなかったです。
 この松沢さんと出会ったのも不思議な縁でした。学生時代に入っていた故遠藤周作さんがやっていた素人劇団にいたことから、遠藤先生に「海と毒薬」という映画に参加しろと学生の時に言われて参加したのがきっかけです。渡辺謙さんの映画デビュー作だと思います。その後、もう1本、もうテレビに出ている時にも「深い河」という映画に出た。これは三船敏郎さんの遺作です。これはインドのベナレスでの3週間のロケにも参加して、その時のことを単行本にしろと熊井監督に言われて、講談社に連絡してあるから売り込みに行けって言われたんです。メチャクチャな話ですけど、会いに行った。
 そしたら、講談社側で相手をしてくれたのが、松沢さんで、映画の本の話は成立しませんでしたが、そのうち何かやりましょうと言ってくれて、時々あってゴハンをごちそうしてもらうようになった。松沢さんはグルメで、男なら気軽に食えるんで良かったんでしょうね。文壇バーとかにも連れて行ってもらった、フレンチイタリアンなども。2年くらい仕事をしないで、タダメシを食わしてもらって、自分がいま何に興味があるのかみたいなことを合う度に話していました。そして、ついに月刊現代で仕事をするようになったんです。
 こうして、テレビラジオ、新聞雑誌。いろいろと仕事をさせてもらうようになった。でも、考えてみると自分なりにやってるだけ。僕は何か現場、現場で仕事をこなして来たけれどもこれでいいのか?とも思っていたんですね。それで、30代の半ば過ぎに、英語と論文と面接の試験で合格者が決まる東京大学の社会情報研究所の教育部を受験して2年間勉強したんです。ここは、昔の東京大学新聞研究所ですね。気鋭の学者が山ほどいて、いろんなことを勉強できた。面白かったですね。学者も来ましたが、新聞社やテレビ局の偉い人も特別講義に来たりする。来る方は東大で講義するんですごい緊張してました。そしたら、テレビに出てる僕がいたりしてよく驚かれました。
 社会情報研究所は、東大の3/4年生や、大学院生なんかがごちゃ混ぜにいる面白い場所でした。カンサンジュという今ではおなじみの学者もICUという大学から初めて東大にやってきて教えたのもここのはずで、教室であったり、朝まで生テレビの忘年会であったりして、不思議な顔をしてました。それから、田勢康弘 なんかもいました。
 で、そんな時期に駒場で学部を越えたゼミを立花隆さんがやるというのです。立花隆といえば、日本一の知の巨人のひとり、始めるゼミも「調べて書く」です。これは、メディアでものをかく自分に行けと言ってるようなものだと思って潜り込んだのです。行ってみると東大生が中心でしたが、他の大学からも山ほど来ていた。
 例えば,立花隆さんが、ノーベル賞を取ったか取る直前の大江健三郎さんと長時間のインタビューをするところを公開したり、いろいろとあったなあ。ひとり30代半ばで、一部の学生にはテレビに出てる人間だとバレていて、居心地は良くなかったけれども、そのゼミの集大成として、「20才のころ」という冊子を作ることになった。のちに新潮社から本になりますが、、、、、書くと立花先生が直接添削をしてもらえるので、僕も何本か取材して、書きましたね。書いたのは有名人では、黒柳徹子さん。逆徹子の部屋ですね。それから橋爪大三郎さん。社会学者として当時は著名な方でした。それから、よく通っていた飲み屋のバーテンダーにも取材しました。全部本になって残っています。ちょっと甘ちょろいセンチメンタルな文章で恥ずかしいですが。。。。

 時おり立花隆ゼミの同窓会がありお誘いももらうのですが、何となく行っていませんね。何でだろ。行くと、立花さんにいろいろとプライベートなことを聞かれて恥ずかしいんですね。自分の無知さや浅さが露呈していくようで。猫ビルや立花先生の部屋の片付けをしたのはとてもいい思い出です。立花先生がフランスにワインのシャトーをもっていたことがあって、そこを売却する前に一緒に行かないかと声がかかったことがあります。僕だけじゃないですよ。もちろん。でも、それに行かなかったことは今でも後悔しています。立花隆さんと1週間くらい、フランスでワインを飲みながらいろんなこと話したらどんなに楽しかったでしょう。。

 いまも立花さんのことをテレビや文章で見かけます。ガンになっておられるのでとても心配です。立花さんはいま、ガンとは何かということを自分の生命をかけて調べておられる。ガン治療の最前線をおったNHK特集は面白かった。そして、観るのが辛かった。もうひとつは日本国憲法に関してです。護憲の立場を取られていて、僕もそうなのですが、ユーチューブで東大でやった2007年の憲法講義のそれがありましたので、載せてみようと思います。僕は護憲=左翼のイメージがあるいまの時代風潮がとても嫌いです。僕は護憲ですが、左翼ではありません。続きもありますので、ユーチューブで見て下さい。





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佐藤治彦 Haruhiko SATO

Author:佐藤治彦 Haruhiko SATO

さとうはるひこ Haruhiko SATO
経済評論家+α
詳しいプロフィールはこのブログのカテゴリーからプロフィールを選んでごらん下さい。経済や金融を中心に90年代初頭から活動してきました。40代初めにセミリタイアし今は本当にやりたい仕事だけを選んでやっています。また、演劇活動にも力を入れました。台本書きや俳優としての仕事などもお待ちしています。
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 佐藤治彦に対する仕事の依頼は、佐藤治彦まで直接ご連絡頂ければ対応いたします。連絡方法は、Facebookの佐藤治彦個人のページからメールで送って頂くのが一番だと思います。もしくは、Twitterを通して連絡を頂ければこちらから連絡します。
 また、マネージャーなどが入った方がいい場合やなかなか連絡が取れない時などは、CAST+ キャスト+ 東京都港区赤坂 6-4-19-5F 電話03-3589-8011(担当田嶋)までご連絡いただいても構いません。ただし、予算が限られている時には直接僕に連絡下さった方がいいと思います。



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